「緑道を未来につなぐ」 開催報告
緑道は宝は昨年9月に発足し、緑道でのイベント情報の提供、愛護会などと緑道の落葉清掃を行ってきました。
そして今回は上野泰先生をお迎えして、参加者約100名のシンポジウムを開催し、緑道とはどのような価値を持っているのかを学び、未来につなぐアイデア、行動を議論しました。また、参加者がお互いに知り合うことができました。



1. 開催概要
・日 時 :2026年7月4日(土)
14時~16時半
・開催場所:ボッシュホール
・主催団体:緑道は宝、緑道ハレバレ会、
ボッシュホール
・テーマ名:「緑道を未来につなぐ」
・目 的
①緑道がどのような考え方で作られたのかをお聞きしながら、緑道の魅力を考え、未来に発展させるイメージ、アイデアを出し合う
②緑道が大好き、関心がある、維持活動をしている、研究をしているなど、緑道に関心のある人が交流し、知り合いになる
2.「緑道は宝」紹介
・緑道は宝紹介パンフ


・緑道の動画
3.上野泰氏講演 「だから緑道は宝」
上野泰氏(港北NT・多摩NT等の
ランドスケープデザイン実施)
(内容)









4.地域別分科会
ささぶねのみち、せきれいのみち、くさぶえのみち、ふじやとのみち に分かれて、いくつかのテーマについて意見交換を行った。
Q1 イチ押しの場所と好きな理由
①「ささぶね・くさぶえ・せきれいのみち」エリア
最も多くの具体的なエピソードや愛着が寄せられている、日々の活動の主要ルートです。
・ささぶねのみち:樹林が深く、せせらぎが段状に滝を作るカスケードは変化に富んだ水の音を楽しめます。
「都筑ノルディックウォーキング・クラブ」の活動拠点でもあり、健康づくりのためのウォーキングを楽しむ人が多く行き交う場所です。
・くさぶえのみち:「緑が豊かで、森の中を走っているような感覚になれる」と定評があり、ジョギングコースとしても人気です。夏場でも木陰によって非常に涼しく感じられます。また、センター北駅へと上がっていく途中にある「2つ並んだ小さなパーゴラ(つる棚)」を、お気に入りのピンポイントスポットとして挙げる声もありました。
・せきれいのみち(せせらぎ公園周辺):生き物が非常に豊富で、奥にある勝田町公園も含めて愛されています。広々とした開放感のある池や古民家があり、自然の力と歴史的な景観が同一の空間に溶け込んでいる点が魅力です。「ホタルが飛ぶせせらぎ」としても認知されています。
② 「徳生・山崎・鴨池公園」エリア
(水辺と広場の拠点)
池や広場を中心に、豊かな生態系、美しい景観、形成されている拠点です。
・徳生公園:春にはカルガモの親子が散歩する姿や、カワセミの美しい姿を間近に見られる場所として住民を癒やしています。「夕方の池ごしに暮れていく風景がとにかく美しい」と、時間帯による景観の移り変わりも高く評価されています。公園の上にある「はらっぱ」は、まるで"ひみつの場所"のような特別な空間として愛着を持たれています。
・山崎公園:「山崎公園の桜」が代表的なスポットとして挙げられており、お花見や季節の移ろいを感じる場所の象徴となっています。
・鴨池公園(周辺の広場・まんまる広場):カモが泳ぐのんびりした雰囲気や、秋の美しい紅葉が人気です。
「まんまる広場」は子どもたちが集まる活気ある空間であり、そこから御影橋の手前にかけて流れる小川の雰囲気が心地よいと評判です。
③ 「御影橋・アークガーデン」周辺(洗練された景観)
人工物を感じさせない、非常に美しい植生景観が楽しめるスポットです。
・御影橋の前後の景色:橋の前後で見られる小川のせせらぎや、周囲の風景のバランスが絶妙で、歩いていて非常に気分転換になる場所です。
・アークガーデンの竹林と紅葉:見事な紅葉と竹林のコントラストが美しく、手入れが非常によく行き届いている雰囲気も含めて、住民の目を楽しませています。
④ その他の個性豊かなスポット
・茅ケ崎公園・葛ケ谷公園:田んぼのある自然生態園はさまざまな生物に触れる場を提供しています。
「深い高い森に入ったような感じ」があり、うっそうとした木々の間を風が通り抜ける瞬間に、日常を忘れて癒やされる空間となっています。
・北山田エリア(せせらぎの道~徳生公園周辺の山、
神無公園):北山田駅から徳生公園へ続く周辺の山エリアは、毎朝のラジオ体操や太極拳の場として、住民の健康的なコミュニティの場になっています。大きな道路から下に降りる「渓谷のような場所」があり、高低差を活かしたダイナミックな自然の造形が魅力です。
・早渕川・みなきたウォーク:市民による「都市アート(高架下壁面のいたずら書きを無くし、コンテスト形式にするなどのアイデア)」の舞台としても注目されており、緑道とはまた一味違う、地域活性化の可能性を秘めた空間として挙げられています。
Q2. 住民の関わり方・「自分にできること」
多くの方がすでに何らかの形で地域や緑道に関わっていました。
① 既存の活動・スキル
・ボランティア・愛護会:公園愛護会での花壇作り、落ち葉掃除、早淵川の清掃。
・専門技術の保有者:建築設計、ランドスケープデザイン、植生・樹木の知識、コミュニケーションデザイン、クリエイティブディレクター、図書館司書など。
・趣味・コミュニティ:ノルディックウォーキングのインストラクター、太極拳、少年サッカーコーチ、ガイドの会など。
Q3 自分が「これからできること」として挙がった内容
・美化・保全活動:「まずはゴミ拾いや掃除から始めたい」「100年・200年後にこの緑道を遺すためにできることを考え続ける」。
・情報発信:「写真をインスタグラム(SNS)にアップして魅力を広める」「もっと調べて知識を深め、発信していく」。
・コミュニティ形成・その他:「すれ違う人に自分から声をかけ、挨拶し合える場にする」「生物図鑑を整える、樹木に名札をつける手伝い」。
Q4. 緑道で「できたらいいな」と思うこと
緑豊かな環境を維持したいという声がある一方で、緩やかに利用を拡大し、次の世代への継承を望むアイデアが多く寄せられました。
| カテゴリ | 具体的なアイデア・要望 |
| 憩い・飲食 | ・キッチンカーやカフェの出店(憩いの場、安心感の提供)
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| イベント・文化 | ・子どもたちと自然に触れ合うイベント(焼き芋大会など)
・ガゼボを利用したストリートミュージシャンの演奏
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| 環境・設備改善 | ・せせらぎの水を浄水して、夏場に子どもが水遊びできる場にする
・老木(桜など)の衰退対策、川の泥対策
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5. 上野先生への質問と回答
事前の質問及び当日のアンケートでは、講演への深い感謝と感銘とともに、設計時の意図、技術的な仕様、そしてこれからの都市計画に関する専門的かつ具体的な質問が多数寄せられました。
【Aカテゴリー:グリーンマトリックスと都市計画】
| 質問―1 グリーンマトリックスシステムの明確な定義を教えて頂ければ幸甚に存じます。 川手先生を始め、いろいろな方、多くの方に伺っていますが、なかなか簡明に説明できる言葉に出会ったことがありませんので。 |
| 回答―1 「グリーンマトリックス」という語は、元日本住宅公団職員で千葉大学名誉教授の田畑禎寿氏の造語である。初出と思われる1967-12の「建築士」誌(日本建築士会)には次のような記述がある。今日の高層、高密度化した都市に対応する新たなオープンスペースシステムの構築が求められるとした上で、「都市の災害や、公害に対する生活環境の保持としての空間として例えば、集中豪雨などによる崖崩れを無くすということで、土地の自然界の秩序を考えて取られる緑地の効用や、その他の災害から守れるような空間が必要なのである。」と指摘し、さらに従来の公園緑地等のオープンスペースシステムに代わる「生活に密着した緑地空間と、生活を守るための緑地空間などを合わせたグリーンマトリックスの追求が、現代都市にとって必要なのである。」と述べている。田畑氏の言う「グリーンマトリックス」という概念はほぼここに言い尽くされているように思われるが、何故「マトリックス」という言葉を使ったのかについての説明は不明である。 「マトリックス(メイトリックス)-MATRIX」という語は、ラテン語の「MATER」母、子宮、源という語を語源とする言葉で、「何かを生み出すもの」という意味として、様々な分野で広く使われている言葉である。例えば数学の「方陣」、物理の「間質」、鉱業の「母岩」、工学の「母材」といった広い意味で使われている。港北のプロジェクトでは、計画段階を追って「方陣」、「間質」、「基盤」とその解釈を変えてきており、そのことが“分かり難い”という評価の原因になっている。 初期の「方陣」という議論に加わっていた川手昭二氏は、「港北ニュータウンのグリーンマトリックス手法による計画は、日常的定型的活動の動線計画立案には役立ったものとなっている。しかしグリーンベルト構想立案については、必ずしも貢献はなかったと私は思っている。」 調査季報 1988 日本住宅公団 と記している。管理者の立場になった氏は、後の「間質」、「基盤」といった現場的議論には参加していなかった。 やや後年になるが、田畑氏は「グリーンマトリックス」について次のように総括している。 「都市のグリーンマトリックスとは、都市における様々な空間、例えば個人の庭、講演、共用庭、棟間園地、歩行者路、ひろば、河川敷、あるいは保全緑地、戸外空間で、行為を誘発するような土地の資産であり、いわゆる社寺境内、樹林、文化遺産など、要素によって土地利用の格付けを行い、戸外の生活空間と自然地の関係を検証し、それぞれの機能を重ね合わせ、要素ごとに結合連続、または関連させて再構築することである。」 エスプラナード №43「特集:グリーンマトリックスを軸とした環境共生」1997-7 (INAX) 恐らくこうした理解が港北ニュータウン検討の初期の頃に、住宅公団内で共有されていた理解であったと考えられる。このような理解をニュータウン開発に応用しようとした最初の試みが,1968の「港北ニュータウン基本計画原案」(日本都市計画学会)と呼ばれるプロジェクトである。なぜ港北でこの試みがなされることになったのか、公団内部でどのような議論があったのかについては不明である。川手昭二氏をチーフとし、公団職員であった田畑氏も参加したこのプロジェクトに筆者も加わっている。 恐らくこうした理解が港北ニュータウン検討の初期の頃に、住宅公団内で共有されていた理解であったと考えられる。このような理解をニュータウン開発に応用しようとした最初の試みが,1968の「港北ニュータウン基本計画原案」(日本都市計画学会)と呼ばれるプロジェクトである。なぜ港北でこの試みがなされることになったのか、公団内部でどのような議論があったのかについては不明である。川手昭二氏をチーフとし、公団職員であった田畑氏も参加したこのプロジェクトに筆者も加わっている。 1970に開発区域が確定し、事業手法も日本住宅公団施行の区画整理と決まり本格的に計画の検討が始まった。この「パイロットプラン」検討段階で上記の「機能の重ね合わせとネットワーク化」を如何に事業化するかという課題が浮上し、そこから筆者の仕事が始まったといって良い。 本来都市オープンスペースは都市の「非定型的」アクティビティーに対応し、ハイラルキーを持たない、包括的な一体空間として捉えるべきであるとする筆者は、縦軸に行為、横軸に空間を置く「方陣(マトリックス)」を作成、如何に“ある行為”が様々な空間に広がっているのかを検証しようとした。しかし公団側はこれによって、従来の公園システムに代わるオープンスペースのネットワーク・システムのかたちが捉えられるのではないかと期待をした。しかし、この「方陣」は元々“用と空間”が一対一では対応しないということを検証する試みであったため、そこから直接的に新たな方法を見つけることは出来なかった。川手氏の「グリーンマトリックスという手法は必ずしも貢献しなかった。」とする批判は、ここから生まれたものと推測をしている。 「方陣」が検証しようとした“用と空間”の広がりを、計画論として捉える新たな視点が必要であった。 すなわち“用―空間”という機能論とは異なった、“広がり”を包括的に捉える視点が求められた。 それが「隙間―間質」という新たな「マトリックス」の理解であった。「間質」―“都市ではないもの”という理解は、「方陣」がカバーしきれなかった(既存の自然環境の)“保全”という問題を考える上で不可欠なものであった。 しかし、この「間質」を、現実の開発計画の中に如何に“都市構造”として位置づけるのかについては、新たな視点が必要であった。 それが「パイロットプラン」で登場した「谷戸オープンスペース」という考え方であった。 この考え方は、筆者が学生時代から抱いてきたものであり、これまで見て来た「マトリックス」の議論とは無関係なものであった。 そうした意味で川手氏の指摘は正しかったとみることもできるが、港北では「グリーンマトリックス=間質」の実体概念として位置付けられた。 こうした「グリーンマトリックス」の理解は、1972の「マスタープラン」検討段階から、事業化に向けてさらに精緻な“説明”が求められることになった。 「マスタープラン」検討段階で、筆者は畏友曽宇厚之氏の参加を依頼し、主に“理屈“面の整理をお願いすることとした。 「マスタープラン」段階に入り、「谷戸オープンスペース」を軸とした保全域の措定という段階を迎え、「マトリックス」の理解はさらに「母岩-基盤(環境基盤)」というかたちに整理されてゆく。 余談になるが、「グリーンマトリックス」という語の創始者の田畑氏は、後年専ら「保全の系」という言葉を使っている。恐らく港北で“手あかのついた”「グリーンマトリックス」という語を避けたのだろうと推測している。 以上長々しい説明になってしまったが、上記の説明を経て、「グリーンマトリックスの明確な定義」を求められるなら、その答えは「MATRIX」という語の原義を踏まえ、「緑の環境を生み出す“母体”となる都市骨格空間」ということになるであろう。 そして“生み出された”もの(こと)を育て上げるのは、そのまちに関わる人々の力である。 言い換えれば「グリーンマトリックス」は緑の中の生活という“作物”を育む「畑」、という言い方ができるだろう。 |
| 質問―2 港北ニュータウン計画のどのタイミングですき間を構想したのですか? |
| 回答―2 前述の回答―1で触れた通り、1970の「パイロットプラン」段階で、定型的機能に関わらない“土地利用”という枠組みの必要性に対応するため、非定型を包含する(空間的)“大枠”という概念を措定する必要があった。そのために考えられたのが、都市機能に関わらない―“都市ではないもの=非都市”として都市から“切り取る”という操作であった。この都市ではないもの=「すき間」が非都市=都市「間質」として整理された。 この「すき間=間質」は、隙間一般と同様“何かが宿るもの、生み出されるもの”として捉えられ、都市的機能によらず、例えば形態(地形、地物)により決定されるものとなった。 こうした考え方は、公団が目指した「緑の環境を最大限に保存(保全)するまちづくり」にとって不可欠なものであった。 実際の事業化においては、筆者が提唱した「谷戸オープンスペース」という考え方を通じて、実現することになるのであるが、その過程は質問の中心事項ではなく、また長文になる可能性もあるので、何れ別の機会があれば説明することとしたい。 |
| 質問―3 グリーンマトリックスのような緑と町が共生している街を日本の他の場所で探しても見つかりません。 なぜ他の街は同じように真似をしないのでしょうか。 ほかにもグリーンマトリックスのような街は日本にありますか? 関連質問 外国にも類似の緑道地域はあるか。 |
| 回答―3 先ず関連質問からお答えする。 “帯状”の緑地を持った都市はかなり古くからある。その多くは河川に沿った帯状の緑地であり、最もよく知られた例がアメリカの「ボストン・パークシステム」(1850年頃)である。これは水系を軸とした帯状緑地である。アメリカにはこのほかにも公園を遊歩道(緑道)で結んだ帯状の緑地が造られ、「パークシステム」と呼ばれた。 しかしこれらの多くは都市縁辺部もしくは郊外部に造られ、ここで言う「都市骨格構造」と呼ぶことは出来ない。また我が国のような丘陵部を開発したニュータウンの例は知らない。 これは、わが国が長く開発規制が緩かったため(「市街化調整区域」が制度化されたのは1986年、港北の開発が検討され始めたころである)、大都市周辺の開発適地はすでにスプロールが進行し、残された土地は丘陵部のみとなっていたためと考えることができる。従って丘陵部の地形を利用した、港北のような事例は他では見られない、ということであろう。丘陵地のニュータウンで、公園等を歩行者路で結んだ例は、関西の「泉北ニュータウン」を始め多々あるが、何れも「都市骨格」と呼ぶほどの形態にはなっていない。「スーパーストラクチャー」、「メガストラクチャー」と呼ばれる都市骨格構造がクローズアップされるのは、筆者が学生時代の1950年代末から1960年代の初めころである。当時もっとも大きな影響を与えたのは、1958のベルリン中心市街地の再整備に向けた国際コンペに出された、イギリスのA&P.スミッソンの案であったと言えるだろう。これは今日わが国でも、駅前等で見られる高架の歩行者デッキにより、都市を構造化しようとする提案で、大きな影響を与えた。無論学生であった筆者も大きな影響を受け、後に都市骨格という問題を考えるきっかけとなった。さらに1961のフランス南部の都市トゥールーズのニュータウン開発、「トゥールーズ・ル・ミライユ」(キャンディリス・ヨジック・ウッズ)の計画も同様の高架デッキと地上部の帯状オープンスペース計画を持ち、多くの影響を与えた。ただし、トゥールーズが実際どのような姿で建設されたのか、という情報を把握しておらず、当初のプロジェクトに対する評価にとどまっている。「トゥールーズ・ル・ミライユ」はその後移民などの低所得者層のまちとなり、治安上の問題等を抱えることになった、という情報に接している。 「類似例はあるか」というご質問にもどる。 類似例を「谷戸オープンスペース骨格」を持つまちとするならば、いくつかある。何れも筆者が土地利用計画に関わったものである。 関東圏では、千葉市と市原市にまたがる「千葉市原ニュータウン」1973(現在はCity&City おゆみ野地区-千葉市、と同ちはら台地区-市原市-と呼ばれる)である。JR千葉駅から外房線で3駅目、「鎌取駅」に至る。ニュータウン内には、JR1駅、京成千原線3駅がある。 関東圏にはもう一箇所、埼玉県、比企丘陵の「高坂ニュータウン」1976がある。「関越自動車道」の「高坂サービスエリア」に隣接し、鉄道では池袋駅から東武東上線で「高坂駅」が最寄となる。 さらに関西では三田市の「北摂ニュータウン」の「フラワータウン」1973がある。 ここには兵庫県立「人と自然の博物館」(丹下健三設計)があり知る人も多いと思う。ただしここは実施計画段階でかなりの変更があり、計画当初の意図とはいささか違ったものとなっているが、「谷戸オープンスペース骨格」というコンセプトは十分に伝わるものとなっているといえるだろう。 |
| 質問―10 今の緑道は主に東西方向に作られていますが、南北につながる緑道があると他の緑道へ一般道を使うことなく移動出来ますが、この計画はなかったのでしょうか? 関連質問 何故全ての緑道が微妙に繋がっていないか。 URと横浜市の何方が主体的に計画をしたのか。 |
| 回答―10 答えは極めて単純である。「グリーンマトリックス計画」というのは、日本住宅公団(当時)施行の区画整理事業のなかの計画である。 横浜市がこの構想に積極的に関わったという情報には接していない。そもそも「グリーンマトリックス」という構想は、「回答―1」にある通り、公団マターの構想であった。 区画整理計画の範囲は下図の通り、南北に分かれており、早淵川沿いの谷戸部は区画整理区域外で、市街化調整区域となっていた。 その経緯は把握していない。1969の「よこはま北農協だより」*では早淵川沿いは「農業専用区予定」となっていた。横浜市、あるいは地元の方にご確認頂きたい。南北の連結は、当初から鉄道沿いの歩行者専用道路でカバーする計画であった。後に中央部を結ぶエリアが編入されたが、「緑道」という視点は見られない。但し、下図の「パイロットプラン」1970に見られる通り、初期から公団としては「緑道」で南北を結ぶ構想あるいは“願望”を持っていた。ただこの間は事業区域外であったため、公団としては実現する手段を持たなかったという事であろう。横浜市も用地買収をしてまで実現させる余裕はなかった、という事だと理解している。後に「やさきのみち」が整備された。 |
| 質問―11 「多摩ニュータウン」と「港北ニュータウン」、計画された当時のこの二つの計画理念の違い、そして今、今半世紀近くを経た後で見えてきたこの二つの街の、住環境の違いをお教え下さい。 |
| 回答―11 共に首都圏にあり、ほぼ同時代に開発された(多摩ニュータウンの都市計画決定は1965、港北ニュータウンの都市計画決定は1969である)二つのニュータウンであるが、これらの背景、制度、状況、理念は全く異なる。共に首都圏の人口増を背景としているが、多摩は人口増の受け皿として、港北は主として人口増に伴う“乱開発”対策として進められたという違いがある。多摩ニュータウンは、土地収用権限のある、全面買収による「新住宅市街地開発法」、港北は従前の地権者の権利を保障する「区画整理事業」と、事業の根拠となる制度も異なる。また、多摩では土地買収に際しての、代替え地斡旋や生活再建対策が不十分との指摘を受けた。一方港北は横浜市の掲げる「市民参加のまちづくり」を推進すべく、地元と市・公団とを結ぶ「港北ニュータウン事業推進連絡協議会」が設置され、また都市農業を確立すべく「農業専用地区」の指定が行われるなど、地元農業への対応が大きく異なっている。 計画の考え方も、港北は区画整理事業のため、地権者との約束の関係上、計画を変更することは極めて困難で、ほぼ当初の計画通り進められたが、一方全面買収の多摩では、社会状況の変化に応じて、「民活の導入」、「多機能複合型のまちづくり」など、各地区のマスタープランの見直しが進められ、筆者が関わった4つの地区すべて、3回位マスタープランの見直しが行われていた。そのため、多くの地区で“古い”マスタープランのもとで工事が開始され、例えば「落合・鶴牧地区」では、前のマスタープランに基づいて大造成が行われ、また幹線道路、一部歩道橋も整備された後、マスタープランの見直しが行われている。したがって、港北のように開発前の環境を取り込むといったことは出来ていない。こうした条件の違いは、空間設計にも影響し、約半世紀後の姿に大きな違いを生み出している。 |
| 質問―18 緑道と住宅やお店の間に、道路がある箇所が多い事で、緑と人の距離が少し離れてしまうのが残念に思うこともあります。 都市計画の中でそうなった理由を知りたいです。 緑道に蜜接した店舗、飲食店が少ないのはなぜですか? |
| 回答―18 「緑道」は、“道”という名前がついているが、法的には道ではなく、公園・緑地である。 「都市公園法」では、公園は“一般公衆の利用のための公共施設”とされ、一部許可を受けたもの(例えば工事等のための一時利用等)以外、私的な利用は認められていない。つまり、特定の対象への“便宜供与”は認められない、と規定されている。隣接する宅地が、直接公園に接する場合、そこに“私用”の出入り口を設けることは、特定の対象への便宜供与と見做されることになるため、公園の外周を公道で取り囲むことが一般的である。隣地の利用形態が、店舗や飲食店の場合も、同様に見做される。 法的には、公園内に店舗や飲食店等の便益施設を、許可を受けて設けることができるが、当該施設が建っている土地が、(借地を含む)公園ではなく民地の場合、“公園内”の便益施設とみなされることはなく、特定の者への便宜供与と見做される、と考えられる。 一方、歩行者専用道路の場合は、道路であるから沿道宅地からの出入りは制限されることはない。 一例をあげると、仲町台近くの「フレスコ」という飲食店の場合、緑道側にテラスが設けられているが、当初緑道からテラスへの直接の出入りは認められていなかった。現在ではテラスの角の所から出入りができるようになっているが、実際は、緑道から直接出入りできるのではなく、緑道に直角に交わっている歩行者専用道路から出入りできるかたちになっている。なお、以上はあくまでも一般的なケースについての筆者の理解であって、実際の管理者である横浜市がどのような方針を持っているのかについては、直接市にお聞きいただきたい。 |
| 質問―19 都筑区内の緑道、大規模公園についてのPark-PFI の必要性。 |
| 回答―19 Park-PFI(公募設置管理制度)という制度は、“公園の機能を損なうことなく、利用者の利便を図り、利便性の向上とともに、公園管理費の縮減を図る“ことを目的として整備された制度である。 既にわが国にでも多くの事例があるが、筆者は2つの大きな問題があると考えている。 一つは、発注側の公園管理者が、事業の“安定性”、継続性を重視して、大企業あるいは実績のある企業を選定しがちであり、収益性中心の類型的な内容が多くなっていると思われることである。公園内ならではの内容に乏しく、多くがまち中何処にでもあるようなものになって、単に場所を貸しているに過ぎない、という実体になっていると考えている。 制度上は、私人でも、NPOでも参入可能であるが、個人が参入したという例は、寡聞にして知らない。 公園としての質を向上させるためには、真にその場所にふさわしい、小回りの利くベンチャーや個人が望ましいと考えられるが、“役所”の安定第一の選択基準では、実現することは極めて難しいと言わざるを得ないだろう。 第ニ点目は、事業推進の体制あるいは手続き上の問題である。 この制度が、「公園の機能を損なうことなく利便性を向上させる」という目的から、国交省は「都市公園の質の向上に向けたPark-PFI活用のガイドライン(R5)」を設け、その中で整備内容が公園として妥当かというチェックをすることを求めている。 ガイドラインでは、都市公園が「都市の豊かな生活を支えるグリーン・インフラであり、自然的環境を主たる構成要素とする」施設であることを踏まえ、計画が真に「当該公園の機能の増進に資するか」を、審査すべく、少なくとも“2名の学識経験者”を含む「委員会」の設置を推奨している。 しかし、筆者は今まで進められたPark-PFIの、どれだけの事例がこの委員会を、設置しているのか疑問に思っている。単に推奨というのではなく、“選定要件”とすべきであると筆者は考えている。また、一般に飲食店等の施設は、多額の設備投資が必要であり、投資を回収するには長い時間がかかることも、小規模事業者の参入を難しくしている。 小回りの利く対応をするためには、固定的設備を持たない仮設的な形態、例えば「キッチンカー」のような形態から始めるのも、実現的な方法ではないかと考えている。 いずれにせよ、カギを握るのは公園管理者の横浜市である。市民側の提案としてこうした試みを提案することも、大切なことであると考えている。 |
| 質問―20 緑道と地域防災についての考え方。 |
| 回答―20 この問題については、以下の3つの視点から考えたが、最終的計画に十分反映されたとは言えない。 地域防災拠点としての「グリーンマトリックス」 宅地造成形の明示 防火帯として「緑道」 筆者は「港北」の検討当時、「オープンスペース」の機能の一つとして、都市に不可避的な“非常時”における“用地の需要”に対応する、土地利用の「リダンダンシー(redundancy)=余剰、ゆとり」ということを考えていた。例えば我が国の事例で言えば、毎年のように多発する災害の度に指摘されるのは、市街地内の仮設住宅等を、建設するための「空き地」の不足である。こうした土地利用の“ゆとり”は、経済合理主義に基づく“産業の論理”によって、退けられてきた。しかし、このような合理性の追求が、今日の都市の“脆弱性”をもらしたことは否めない。 さらに、筆者の年代であれば、第2次大戦後の食糧不足に対処するため、「日比谷公園」や、「上野公園」が農地として活用されたことを知っている。このような事態は、極端な例外的事態とみる見方もあるだろうが、都市の“寿命”は50年、100年ではない。長い歴史の中で、このような都市をめぐる不測の事態に対し、短期的視野に基づく経済合理主義では全く対処できない、と筆者は考えている。 このような見地から「港北」の計画の中では、こうした土地利用の“ゆとり”を、「グリーンマトリックス」という包括的概念の中に入れて、水を得やすい平坦地としての“谷戸オープンスペース”の実現を目指した。 「港北」のマスタープランを検討していた1971年11月、旧建設省が川崎市の生田緑地内で、傾斜地の崩壊に関する実験を行って、土砂崩壊を起こし報道陣を始めとする15名の死傷者を出すという事故があった。後の調査では、“地山”と思っていた斜面が、比較的新しい“盛土面”であったということが判明した。事故は盛土面に大量の水を撒いたことによって、引き起こされたものであった。この事故は、比較的新しい造成工事も記録に残されず、判別し難い、ということを意味した。 この事故から大きなショックを受け、丘陵部における住宅地開発のような、大規模な造成工事を伴う事業で、こうした課題をどう扱うべきか考えることとなった。 「港北」では、こうした課題にこたえるべく、“切り土”と“盛土”の境界に“現況斜面”を挟み込み、それを公的な「グリーンマトリックス」として、土地改変の目印にしようと考えた。 しかし、このような対応は規模の大きな“幹線”の谷戸に限られ、中小の“支線”では、区画整理という事業の枠の中では対応できなかった。また下図のA点では出来ても、B点では出来ていない。 さらに、経年変化により樹木も大きくなって、既存斜面と、造成法面の差が分かり難くなっている。 大雑把に言えば、緑道の集合住宅、あるいは誘致施設がある側が現況斜面で、戸建て住宅がある側が盛土面である、と言うことができる。 「関東大震災」で発生した火災時、常緑樹が防火帯なったということは、公園関係者のだれでも知るとである。このような知見を活かして、震災後の「震災復興公園」の整備においては、公園の周辺部を、サンゴジュ、ウバメガシ等の常緑樹で取り囲む設計がなされたが、戦後の改修時に暗い、見通しが悪い等の理由で多くが撤去された。筆者は「阪神淡路大震災」の直後、長田の現場で、比較的燃えやすいと考えられた“イチョウ並木”が防火帯の役割を果たした事例を目撃している。 「港北」では、緑道の戸建て住宅側一列を、常緑樹の防火帯とすることを考えたが、“暗い、見通しが悪い”といった理由で実現しなかった。例え実現していたとしても、昨今のような異常乾燥が続けば、常緑樹でも、その機能は限定されるだろう。 結果的に「港北」の計画は、必ずしも“防災を中心とした”計画とはなっていない、と言えるだろう。とはいえ、“何が起きても安全”といったシステムなど存在しないので、結局それぞれが気を付けるしかないのであろう。 |
【Bカテゴリー:整備方針について】
| 質問―4 くさぶえのみちのせせらぎは、雨が降らないと流れず、淀みますか? |
| 回答―4 この問題は、現代の都市計画における下水道システムの問題、ということができる。 今日の都市開発システムにおいて、既存の河川あるいは開渠である必要のある、水利権のある水路等を除いて、雨水は“全て”管渠で処理されることになっている。すなわち、まちに降った雨は「せせらぎ」には流れないシステムになっている。現行の下水道システムの中では、せせらぎのようなものは“無いこと”になっており、本来は存在しないものとして、いわば「まま子」という扱いで、“大目に見て”もらっている存在である。こうしたことを解消するためには、現行の下水道システムを変える必要がある。 水源のない状況で、常時水が流れるせせらぎを実現することは不可能である。 計画時公団から検討を求められた筆者は、上記の理由により反対をした。降水時のみ水が流れる「Wash」あるいは「Wadi」と呼ばれる「枯れ川」のようなものならできると主張し、喧嘩をしたこともあった。 しかし地元対策協の意を受けて、水源問題はあいまいなまま実施することとなった。「せせらぎ公園」を流れる「せきれいのみち」の水路は“モデル緑道”としてのデモンストレーションとして井戸を掘っている。その後横浜市が4カ所の井戸を掘っているが、これは「防災井戸」として掘られたものではないかと推測している。 今後市民が常時(?)水が流れる状態を望むなら、「防災井戸」はもっと必要なはずであり、せせらぎ沿いに井戸を増やすことを、市に提案しても良いのではないか。さらに長期的な水源確保としては、東京墨田区のような雨水貯留システムを導入し、せせらぎ沿いの集合住宅の屋根面の雨水を一時貯留し、少しずつせせらぎに放流するシステムを検討するということも考えられる。地下埋設ではコストがかかるので、墨田区のような露出型とすればコストは抑えられるだろうし、行政の補助があれば実現可能であると考えている。こうした取り組みは、近年の集中豪雨の頻発などを考えると、下水道システムの負荷低減策としても意味のあることになるのではないかと考えている。 |
| 質問―12 (緑道の)井戸の場所を地図で教えて頂きたいと思います。 |
| 回答―12 「緑道」関連の井戸は、公団の“デモンストレーション”として市整備された「モデル緑道」(現在の「せせらぎ公園」下流部および、その下流の「せきれいのみち」の一部)のために、公団が整備した1カ所を除いて、横浜市が整備したものと承知をしている。「モデル緑道」の井戸は、当時その上流部は造成中もしくは予定地であり、雨水が流入するとしても“泥水”しか流入しないため、やむなく掘ったものである。市の整備は恐らく「防災井戸」という位置付けではないかと推測しているが、確認はしていない。 以上のように緑道関連の井戸は基本的に“市マター”の事項であるが、幸い手元に市の資料があるのでご紹介する。 |
| 質問―13 開発前の谷戸の水脈と、現在の緑道との関係を知りたい。 |
| 回答―13 |
| 質問―14 「葛が谷公園」に設置されているパーゴラは、どのような目的で設置されたのですか? あえて説明版を設けていないのは、何か狙いがあるのでしょうか? |
| 回答―14 全く普通のパーゴラであって、特別な意図はない。当初「スイカズラのパーゴラ」を意図したが、いつの間にかスイカズラが撤去され、骨組みだけになってしまっている。恐らくスイカズラは“あばれる”ので、持て余した管理者が撤去してしまったのではないかと考えられる。柱の上に植物の棚が乗るという普通のパーゴラのかたちではなく、スイカズラに覆われた」「石室」のようなイメージであったかもしれない。 割石の柱を使ったのは、造園家伊藤邦衛氏と関係がある。伊藤氏は筆者から一回りくらい上の方で、日本庭園などを多く手掛けた。当時盛んに“石を立てた”作品をつくられ、それを見て“どうも違う、自分ならこうする”と思ったことによると思う。「鴨池公園橋」の“親柱”や「葛が谷公園」のパーゴラなどがそれである。なお、「渋沢橋」の下流にも同型のパーゴラがあるが、こちらはコストの関係で」、コンクリート製となった。北地区の「中川八幡公園」(設計者不詳)の石の柱も恐らく伊藤氏の影響と思われる。 |
| 質問―15 北部に石のアートが少ないのは何故か? |
| 回答―15 特段の計画上の理由ではなく、単に事業の“懐具合”の事情によるものと考えている。 整備は南地区が先行し、当時は高度経済成長期からバブル期に至る時期で、資金は区画整理事業としては割合と潤沢であった。 しかし、北地区の整備に入るころ景気は徐々に低下し、整備資金も引き締めが図られ、設計の簡略化等も行われた。 例えば、橋梁の設計においても、設計コストを抑えるために“ながす”ことも予想され、南北の質のバランスを担保するために、いくつかの橋を選んで“先行的に”デザインを進めた事例等もある。 「山崎公園」のところの「水明隧道」、「徳生公園」の「水運隧道」、北山田の「やまたふじはし」などである。緑道については、概ね基準は守られたが、使用する石材など南に比べると差がみられる。 |
| 質問―21 自転車の視点はなぜ少ないか、今後の新しい交通と歩車分離の街 関連質問 散歩する際に電動ママチャリの疾走に怖さを感じる時があります。何か効果的な対策は考えられますか。 |
| 回答―21 筆者は、社会施設の運用には一定のルールが必要だと考えている。ルールがないまま、モノの整備が先行すれば、混乱のもととなるし、将来の正常な発展の妨げともなる。 自転車に関しても、そのようなことが言える。長らく我が国は、自転車の使用に関して、ほぼ“野放し”状態にあったといって良いだろう。重大事故に関して、その約3/4に自転車側にもルール違反があった、という事態を受けて、ようやく本年(2026年)4月の「道交法」改正によって、新たなルールが定められたが、今後どのようにそれが定着し、実効性のあるものになるのか、は不明である。 まして、40年前、自転車をめぐる環境は、さらに混沌としたものだったといって良い。 とはいえ、港北の計画の中で、自転車への対応が全く議論されなかったと言う訳ではない。折角広幅員の「緑道」を整備するのだから、「自転車専用路」が欲しい、という意見もあったが、緑道には外部からのアクセスが多くあり、その人の動線と自転車の動線の、交差処理をどうするのかという問題で解決策が見つからなかった。立体交差にすれば、多くの土地と経費が必要になる。また平面交差とすれば、安全確保のためには、きちんとしたルールが必要となる。面積的制約、予算的制約、またルールの未整備等により、結局曖昧なまま、将来の検討に委ねることとしたのである。 筆者は自転車道については、距離の長い“都市間交通”については「自転車専用道路」の整備を考えるべきであるが、“都市内交通”については、様々な利便性を考慮すれば、“混合交通”が適当であると考えている。では、都築の「緑道」のようなケースについてはどうか。不十分とはいえ、新しいルールができた今、それに基づき「緑道」における自転車利用をどうするかは、これから皆さんが決めてゆく問題である |
【Cカテゴリー:利用、管理、市民の役割】
| 質問―5 公園の管理はボランティアでやっていますが、高齢化して人数が減っています。これからどうしたらいいか教えてください。 関連質問 この緑道を維持してゆく為に必要なことは何ですか。私たち住民ができることは何かありますか? 子や孫の時代にも引き継がれたら…と願っています。そのために私たちが今出来ることを教えて頂けたら嬉しいです。 未来に繋げるために必要なことを講演でもお話しください。 若い世代にどのように伝えたらよいか? |
| 回答―5 この問題は今回のセッションの中心になる問題であり、したがってその回答も極めて重要なものとなるはずのものである。 しかし回答は極めてシンプルなものである。 まちは“人が住んで”初めてまちとなる。まちのあり方を決めるのはそこに住む(あるいは関わる)人々である。したがってまちの問題を提起するのはそうした人々である、という理解に基づいているからである。また「制度」という枠の中でものを考えない、ということも大切なことである。 まちの環境維持のために市民が出来ること、すべきことの第1番目は、関心を持つこと。“日常生活の場”として関心を持つことである。2番目はそれを体感すること、頭で考えるのではなく、“身体性”の問題として捉えること。3番めはそれを“自分のことば”で(制度化した既成のことばではなく)言語化すること。4番目としてそれを発信すること。そうして、異なる意見も包含する“緩やかな”理解、意識の共有を図ること。こうした一連の操作は、人と人の関係を構築するためのものである。オープンな人のつながりを構築することが重要である。質問の一番目の場合のように、人手が無くなったら、既成の枠組みに頼るのではなく、広く“助っ人”と募ることができるような、オープンなシステムを構築することである。 いま日本の伝統的な祭りでも、人手が足りなくなり、世界中から助っ人が馳せ参じるような状況になっている。こうした形がこれからのかたちになるのではないかと考えている。通常の管理業務でも、従来のやり方ではなく、事前に情報をオープンにし、当日広く助っ人を受け入れるようなあり方が、必要ではないかと考えている。 一方、公園にしろ緑道にしろ、隅から隅まで“箱庭のように”きれいにすべき、といった固定的観念を捨てることが求められる。言い換えれば、放置できる所はどこか、何かを探し作業量を軽減し、単純化することも必要となる。さらに、ある程度の単純作業を担えるようにするためのスキル―例えば草刈り機の使い方の習得などの研修も意味があるだろう。 無論“ゴミ拾い”のような一人で出来ることは続けて頂きたい。一方一人ではできない、大勢の力を合わせる必要がある時のために、人と人のつながりを普段から育成しておく必要がある。さらに行政とも協力できるあり方も探る必要がある。目指すのは市民と行政が共に考え、共に行動できる関係を見つけ出してゆくことである。そのために市民側からあらゆる手段(例えば横浜市の「市民からの提案」といった制度を活用し)で意見を発信し、対話を求めてゆくことが必要だろう。 以上を総括すれば、まず(緑道に)関心を持つこと。関心を持つ人たちとの出会いの機会をつくること。 人と人の繋がりをつくり出し、“オープンな”、ゆるやかな繋がりとすること。“小さな目標”をたて、出来ることを“楽しんで”やること。そして“小さな成功”を積み重ねてゆくことなどである。 筆者はかつて、こうした市民による活動を、車になぞらえ「車はエンジン(モーター)が無ければ走らない。エンジンはガソリン(エネルギー)が無ければ動かない」として車の車体(理念、計画)、エンジン(人)、エネルギー(動機、熱意)のバランスが大切であると説いたことがあった。車体が大きくてもエンジンが小さければ動かない。エンジンが大きすぎれば暴発し、バラバラになる。エネルギーがあっても、車体とエンジンのバランスが悪ければ動かない。持続させるためには全体のバランスが大切である。 環境維持に関わる市民活動とは、“商品化”された消費的レクリエーションに代わる、創造的、建設的な時間の過ごし方として考えるべき事であり、消費では得られない、自信と達成感をもたらすはずのものである。 |
| 質問―6 緑道や公園のサクラの老樹が今、とても残念な状態です。対策が進められているのか、住民にできることがありますか? |
| 回答―6 筆者はサクラ(特にソメイヨシノ)の管理について、広く、長期にわたり誤った方法がとられて来たと考えている。またソメイヨシノの場合“クローン”であるという事情も、管理の困難さに影響しているのかもしれないと考えていが、筆者は樹木管理の専門家ではないので、是非一度樹木医を招いて、市民が知っておくべき管理上の基礎知識を習得されることをお勧めする。現在の公共の場における植樹、管理は決して理想的な状況にあるとは言えない。樹種選定、植樹間隔、剪定、根元の踏圧、排水、落ち葉処理等々問題は多々ある。 その上で、今市民が出来ることについて考えてみたい。中長期的には今枯損しているものを若木(サクラとすればソメイヨシノ以外の品種)に植え替えることになるだろう。その場合も一般市民が植え替えに参加できるよう(またコストを抑えられるよう)、例えば樹高2m以下の若木にする等の工夫が必要であろう。植え替えのために募金等を行うことも考えられる。短期的には、まず人身への被害を防止することである。そのために観察を密にし、少しでも異変に気付けば管理者に通告する等の対応が必要である。また、枝折れ、倒木の危険があるとされた場合には、そこに人が近寄らないようにする人止め柵等の設置等に、協力できることがあるだろう。 |
| 質問―7 時々防犯の事も気になります。 |
| 回答―7 この問題は基本的には管理上の問題といえるが、計画段階では、われわれは「安全ルート」という考えを持っていた。A点からB点に移動する場合、遠回りでも1ルートは“安全な”ルートを確保しておく、という考え方である。例外はあるが、「緑道」は“日常的動線”を形成していないものという位置付けになっていた。「安全ルート」は基本的に歩行者専用道路が担う、と整理されていた。とはいえ緑道の設計においても、見通しを良くするため灌木等の視線を遮る障害物の配置には、それなりの配慮をしたつもりであるが、工事終了後数十年がたち、状況が変わったことはやむを得ない面もある。 残念ながら、われわれの社会から犯罪はなくならない。それどころか白昼でも、人ごみの中でも凶悪犯罪が発生する状況になっている。我々は常に“まち中が危険”という意識を忘れてはならない。そして少しでも危険を感ずる場所には近寄らない、という意識が求められている。とはいえすべて我慢をすべき、と言っているわけではない。少しでも問題を感じたら、躊躇することなく防犯灯の設置、監視カメラの設置等、管理者と相談すべきである。 |
| 質問―8 緑道の出発点・終着点近くの地下鉄駅名を教えてほしいです。 |
| 回答―8 |
| 質問―16 緑道とペット(犬)含む動物共生について先生の考え。 |
| 回答―16 ここには二つの問題が含まれている。一つはご質問にある“ペット―人意に飼われている動物”である。 緑道で如何に人とペットが共存するかという問題は、居住者が決める問題である。 もし合意が得られたら、公園か緑道に「ドッグラン」といった施設をつくることもあるだろうし、草を刈る手助けにヤギを飼う、といったこともあるかも知れない。いずれにせよこまごまとした事項についての、合意が必要であることは言うまでもない。 もう一つは、野生動物との共生である。現在どのような鳥獣、昆虫等が港北に生息しているのか知らないが、調査がなされているのであろうか。 現在、かなりの動物が都市部に“戻って”来ていることが報告されている。筆者が以前住んでいた練馬区内でも、日常タヌキやハクビシンなどを見かけたし、サルなども現れたことがあった。今後の市街地の推移によっては、より大型の野生生物が進出してくることも考えられる。当面港北では神経質になる必要はないものと思われるが、リスクの可能性を考えたり、リスク回避につながる生ゴミの管理等、心掛けておくことは無駄ではないと思う。 |
| 質問―22 緑道に花畑を造るとしたら、何処が良いでしょうか? |
| 回答―22 ご質問の“花畑“がどのようなイメージのものかが分からないので、ごく一般的な事項についての私見を述べる。 場所 一般的に言って 「緑道」は幅が狭く、地形的にもゆとりがない。また時間の経過とともに、樹木が大きくなり樹冠に覆われた、日の当たらない場所が多くなっている。また人間による踏圧の可能性も高い。したがって、花卉草本類の生育条件としては良い条件の場所とは言えない。 もし、まとまった“花のスペース”をつくるとしたら、「公園」内、ということになるだろう。 公園内の広場周辺等、日の当たる広がりのある場所が、適当ではないかと思われる。ただし一般論として、広場の中では踏まれたりする可能性が高いので、広場外周に園路等がある場合はその外側、その他の場合は植え込み等に沿った場所が、良いのではないかと思われる。その場の日照、水条件、他の植物との競合等を考慮することは言うまでもない。 かたち 都筑の緑道(公園を含む)は、全体として“自然風”のデザインをベースとしているので、公園、緑道内に“花畑”をつくるとすれば、そのかたちに留意する必要がある。一般論として、直線や明確な“角” を持つかたちは避け、“自然風”のかたちを目指すべきではないか。 基本的な在り方としては、まとまった“花畑”ではなく、“道端に咲く花”、あるいは群生地といったあり方が、この場合ふさわしいのではないかと考えている。 一方「歩行者専用道路」の場合は、そうした制限はなく、一般的な“花壇”といった形態で問題はないと考えている。 素材 上記とも関連するが、「緑道」では基本的に“外来種”の使用は極力控えてきた。公園を含む緑道では、極力“在来種”を活用すべきであると考えている。ぜひとも在来種を活かした花の“群生地”の実現を目指して頂きたい。 |
| 質問―23 緑道それぞれの名前はどのように付けましたか? |
| 回答―23 公園、緑道、歩専道、広場、橋梁等の基盤施設の固有名称は、横浜市へ移管後に市が付けたもので、基本的にわれわれの仕事は、工事が始まる“前”(当時工事管理は外注されていなかった)に終了し、プロジェクトから離れるのが普通であった。したがって「全く知らない」というのが答えになる。 命名の経緯等については、市にお聞き頂きたい。 |
【Dカテゴリー:個人的な思い、メッセージ】
| 質問―9 港北ニュータウンで描いた環境は、自身の人生にどのような影響をもたらしましたか? それは想像していたことですか? |
| 回答―9 身も蓋もない回答になるが「特にないと考えている」というのが正直な答えである。 “港北ニュータウンの仕事に関わったことが、自身の人生にどのような影響をもたらしたか?” という問であれば、“2つある”とお答えする。 一つは、今なお続く“終わりのない宿題”を背負い込んだ、ということである。 第二は人との出会いである。 一つ目は、既存の農村風景を“環境資産”として捉え、それを如何に新しい都市の風景としてアダプトしてゆくか、という視点である。将来の住民による評価に委ねるため、極力改変を控えるというのがその基本であった。これは都市開発を“スクラップ・アンド・ビルド”とせず、地域の文化的文脈を次に伝えたいという思いもあった。一方、改変を余儀なくされた部分では、“魅力的なまち―選ばれるまち”とするべく、地域のポテンシャルを活かしつつ、設計者が“あたりまえ”と考えている風景(内的風景)に近づける―内的理想世界を如何に現実化させるか、という視点であったと整理できる。 港北におけるこうした取り組みにより、「地と図」、「基盤と力点」、「育成と創作」といった視点で、今回のイベントのような機会の度に、今なお終わりの無いレビューを求められ、再考し、再定義し、再発信をするという終わりのない“宿題”を背負い込むこととなったと捉えている。 第二は、川手先生を始め様々な面における「キーマン」と出会えたことである。そして約半世紀経た今なお、このように住民の方々や、ニュータウンに関心を持つ方々との交流の機会が得られたことは、筆者のような仕事に関わる者にとっては稀有な事であり、人生にとって最大の「宝」ということができるだろう。 |
| 質問―24 実現できたこと、実現できなかったこと、多々あると思いますが、満足度としてはどのくらいでしょうか? |
| 回答―24 「港北」にせよ他の仕事にせよ、「満足度」と言うような物差しで考えた事がないので、お答えが難しい。 20代の頃「計画」とは、“諸力の合力”として現れるものであり、“行う”ものではなく、“成る”ものである、と考えていた。それは今でも変わらない。 実現できたにしろ、出来なかったにしろ、そのような結果に導く“客観的”な理由があったからである、と考えて来たからである。 「満足度は?」と問われて、改めて考えてみた。当然実現できなかったことも多いが、学生時代にまで遡る、「都市骨格としての“谷戸”オープンスペース」という考え方を、多くの方々の理解と協力によって、曲がりなりにも“実体化”でき、広く社会に問うことができた、ということは「満足すべき」結果であった、と考えている。 |
| 質問―25 次世代に何を伝えようとしたのか。 または何を残そうとされたのでしょうか。 |
| 回答―25 まず、何を伝えようとしたのか、という点についてお答えする。 それは“環境の他者性”ということである。人と人の場合、他人との違い、“他者性”を知ることによって、「社会性」が育まれる。 同様に環境の場合でも、自分(人間)の“都合”以外のものと接することによって、他との“共存”の感覚が芽生えてくる、と考えている。生物界における「生態系」の発展の歴史を見ても、“競争”から“共存”へと、生き残りのために、“進化”してきたことが分かる。 そして、この事が、人類が生き残るために、不可欠な要素であると考えている。 都筑の「グリーンマトリックス」として残されたものは、都市の都合により造られたものではなく、農村的土地利用の中で生まれてきたものである。その意味で都市から見れば“非都市”であり、“他者”と言える。こうした環境の中の“他者”とどう折り合いをつけて、より良い共存のかたちを見つけ出してゆくかが、問われていることになる。こうした“他者”を包含する環境は、ある一時の“都市の都合”によって開発された都市よりも、はるかに豊かな環境を生み出してきたことは、多くの歴史的都市が証明している。 もう一つが“環境の身体性”ということである。環境は数値ではない。五感あるいは六感によって捉えられるものであり、“他者性”もこの“身体性”を通じて習得されるものでなければならない。 次に何を残したのか、という問題であるが、一言で言えば「未来の可能性」ということができるだろう。 これまでも他のご質問に関連して触れてきた事であるが、「港北」の開発において最も重視されたことの一つが、「決めきらない」ということであった。計画のリーダーであった川手氏は、“ゆるふん”という言葉を使って、そのコンセプトをわれわれに伝えた。保全を中心とした「グリーンマトリックス」はその考え方の代表的な例と言える。われわれはそこで、「都市オープンスペース」をつくるのではなく、将来都市オープンスペースに“なるであろう”空間を用意した、ということである。このことが上記の一番目の回答と共に、港北の緑道のあり方を決定していると考えている。 一方われわれの社会は、急速な高齢化、人口の減少等による働き手不足、経済規模の縮小、技術の伝承が上手く行えていない、などにより公共施設の管理が困難となり、多くの自治体でインフラの縮小等が発生してきている。公園・緑地についても、従来の“集約的管理”が難しくなり、枝折れや倒木の被害が報告される事態になっている。 筆者は恐らく今後、公園等の植栽地の管理不全による“野生化”といった問題が、避けては通れない問題として浮上するものと考えている。 その時、究極の“他者”としての「野生地」を、われわれの日常的環境として如何に取り入れるか、共生のために、如何なるシステムが求められるのか、といった問題が突き付けられることになるだろう。 この事は昨今問題になっている、野生生物との共生をどう考えてゆくか、という問題に繋がる問題であり、“他者”を包含するシステムの可能性を探って来た「港北」は、この問題を考える絶好のフィールドの一つに、なるかも知れないと考えている。 |
6.まとめ
(上野先生の総括)
市民が出来ること、すべきことの第1番目は、 関心を持つこと。“日常生活の場”として関心を持つことである。
2番目はそれを体感すること、頭で考えるのではなく、“身体性”の問題として捉えること。
3番目はそれを“自分のことば”で(制度化した既成のことばではなく)言語化する
4番目としてそれを発信すること。そうして、異なる意見も包含する“緩やかな”理解、意識の共有を図ること。
そして、小さくてもできることを目標に実行し、積み重ねて未来につなげて欲しい。